どこを見ても新型コロナウイルスの話題ばかりだ。イランとアメリカの対立や、自動運転が語られたり論じられたりすることがなくなった。その割に、コロナウイルスCOVID-19への対策や社会的な困窮が伝えられる。
そこで、ちょうど歴史家ユヴァル・ハラリが行ったように(1)、この感染症が長期的にどのような影響を与えるのか、また与えないのかを考えてみたい。彼のような才人を真似するつもりは毛頭ないが、私自身は、この感染症は社会を大きく変えてゆくだろうと思う。コロナウイルス以前をBC(before coronavirus)、以後をAC(after coronavirus)と呼びたいほどである。
社会変容が「予想」という形になるのは致し方ない。厳密でアカデミックな行為ではない。ただし予想が実際のプランに影響を与え、社会を変えることは、疾病や戦争のあとでは必ず起きることである。また今後を考えることは、大規模な疾病の流行や戦争の最中に構想されてゆくものだ。一介の研究者の予想が影響を与えるとは思えないが。
以下、次の順番で提示してみたい。まず国際関係と国内政治に関係する部分。そしてライヴや対面的コミュニケーションと仮想的コミュニケーションの関係。最後に経済の今後。このような順番で考えたい。
国際協調とナショナリズム
感染症は、国際協調を要求する。最近のSARSやエボラウイルスのような感染症epidemicは、一国だけで取る手段は限られた。SARSの場合は中国広東省から拡散し、特に香港で広がった。現在のようなグローバル化社会の中では、飛行機、クルーズ船、貨物船を媒介にして、疾病はあっという間に広がる。また人の行き来はどのような奥地であろうと行われるので、アマゾンのヤノマミ族までが感染するのである。
ここからわかることは、自国の感染者を減らそうとしたら、他国の感染者を減らす、少なくとも増えなくするための情報提供や政策は必須だということになる。
「鎖国」や国境閉鎖は効果がないわけではないが、そのことは、国境を開くと一気に感染者の増加を引き起こす。先週(「2020年4月19日の週)、中国では80人程度の感染者が日々発生していたが、その8割はロシアからの入国者であった。ロシアはCOVID-19がまさにいま猖獗を極めている。
しかし、そのような国際協調を取りにくい面もある。防護服やマスクやシールドは、世界的に需要が高まっているので、自国だけはなんとか入手しようとする政府は出てくる。この自国中心主義は、物資の供給量を増やすので、短期的なもので止まるはずだ。このような点を除けば、治療法や薬剤の共有や医療従事者の交流を含めた協調行動が終息を早める。
地方自治体
今回、感染症では自治体の対応が重要だということがはっきりした。
まずアメリカを見てみよう。アメリカではトランプ大統領が新型コロナウイルスに対して、年初では楽観的な見方をしていた。その後、死者数を30万人程度と見積もる予測を発表したが、さらにその後には「消毒液を注射するとよい」とか、ロックダウン(都市封鎖)を行う民主党系州知事への攻撃を行うなど、発言内容は二転三転した。
私個人はニューヨークに注目していた。この街は人口が密集し、また多文化な都市であり、どの程度感染症が広がるのを防げるかの指標になるからだ。
結果としては、現在はピークアウトしたが、本日4月26日現在、16,000人以上のもの死者を出している。
ここで活躍したのは、ニューヨーク市長のデブラシオ氏と、クオモ州知事である。この2人は毎日のように記者会見を行い、現状を細部にわたり告知した。今後どのようになりそうかデータを示し、封鎖を行わないとどうなるかと比較しつつ、細かな情報の提供で市民から不安を取り除き、都市封鎖の合理性を理解してもらう場を作った。市民にはある種の結束が生まれた。地域を理解している人がリーダーシップを発揮することで、医療崩壊(病院側に新たな救急患者を受け入れる余裕がなくなること)を回避した。
日本では北海道知事である鈴木直道氏が、真っ先に「緊急事態宣言」を出した。札幌を中心に感染が拡大したからである。都の職員時代に福祉保健局勤務だったこともあり、状況判断は正確であった。また政府より先に休業要請を受け入れた事業者に支援金を出すことを決定(4月22日)。それより早く札幌市や函館市が支援金支給を決めているので、業者によっては計30万円が給付されることになった。
また福岡市は4月14日、福岡県に先立ち、賃料助成や飲食店支援策を出した(2)その2日後には北九州市が、休業をしたお店の店舗賃料8割支援といった政策を出している(3)
こういう例は、まだまだあるが(東京都もそうだ)、特徴として中央政府よりもスピードがより速いところにある。政府は「スピード感を持って」と口を揃えるが、実際に「スピード」があるのは地方自治体であった。さらに、いま霞ヶ関や政治家がソーシャル・メディア内の見解やその動向を気にしていることが観察される。Twitterデモクラシーとでも呼べる状況が生まれている。
ライヴとストリーミング リアルとヴァーチャルの併用
舞台芸術の享受や教育の方法が驚くほど変わってしまった。
たとえばオペラやクラシック、テクノやエッジハウスの音楽の「ライヴ」がYouTubeやインスタのライヴを使って流れてくる。世界のさまざまな地域の人たちのコメントや絵文字が次々にコメント欄を通過してゆくのを見ると、「体験を同時に共有しているのだな」という感覚に支配され、実際にスタジアムや野外ステージにいるのに近い、錯覚という側面はあるにせよ経験ができる。
同じことは、Zoomを使った遠隔授業においても起きる。私の講義を聞いてくれている生徒や学生の表情がよくわかるので、私の話す内容や資料に反応してくれているのも「ライヴ」で実感できる。
BC時代であれば、教室という現場にいて対面で授業を受け、またライヴ会場にいるのがあくまで主であって、音質や画像に劣るストリーミングや、DVD、ブルーレイが、「生」のものを補うサブ・メディアとして認識されていた。
そこには距離physical distanceがあった。生のものは録音録画によっては再現されえないものと考えられていた。
しかし、いま、社会的にも物理的にも距離を取ることが指示され、場合によっては距離が近いとフランスのように罰則が加わることで、このサブ・メディアが主に躍り出た。仕事、飲み会、大学教育、これらが突然ZoomやMeetの多分割画面で経験されるようになった。そしてその経験は多くの人の予想以上に機能した。
ITを使った仮想的な会議や講義は、仮想であるがゆえに、発言や理解の度合いを上げている。参加者全員の表情が細かく映るので、誰がどの程度真剣に取り組んでいるかがスクリーンでいままでになく明確になってしまうのだ。この相互の「監視」と、リアルに人前で起きていないということから、発言なり見解を述べるインセンティヴは上がっている。
動画配信サイトを使った会議や打ち合わせ、講義はもはやなくならないだろう。たとえば大教室であれば、リアルな授業の中でZoomが使われて、質問を受けたり、ファイルを一斉に配ったりということが可能になる。後に戻ることはないだろう。教育は対面だけが優れているという考えは滅びてゆく。
社会や都市の変動
いままで人は都市に集まり、そこで話し合ったり、授業を聴いたり、スタジアムに行って、試合を見たりした。なぜだろうか。これは人対人が人間関係ではベストであり、それ以外は補助的手段に過ぎないという考え方からだ。
それが上述のように壊れつつあるとすれば、いままでのように都市の郊外に住み、高い賃貸料やローンを組んで、通勤通学をする必要がなくなってしまう。大阪なら、六甲近郊にいても、また東京なら千葉県館山市に住んでも、仕事はできるし教育も受けられる(4)
これは都市の構造や地価に決定的な影響を与えるだろう。とくに5G(次世代通信規格)が広がり、さらに自動運転がサブスクでできるようになると、都市部でのさまざまなコストに耐える必要はなくなる。それでも都市部に住むことで得られる情報や、対面のコミュニケーションは重要にはなる。むしろ希であるから貴重なことになるかもしれない。だが、熱海市の温泉付き賃貸に住むと、生活費は下がり、気候は温暖で、自然を楽しむことも容易になる。もちろん災害のリスクはあるのだが、生活費の低下は貯蓄に影響する。
スーツを着たり、ハイヒールを履く機会は減る。外食よりも取り寄せや自宅で料理を作るようになる。長時間の通勤がなくなれば、新たな時間も捻出できる。それでも東京、大阪、名古屋、福岡に人は住むだろう。しかし、その数はだいぶ減るのではないか。
自動運転と交通システムの利用率の低下は、経済を根底から変える。土地所有の形も変化させる。すぐに起きるかどうかは別だが、少なくとも、労働と教育の方法は変わった。新しい労働法や教育基本法が必要になるだろう。
(1)ユヴァル・ノア・ハラリ『コロナウイルス後の世界』。もともとはFTに出た記事
http://web.kawade.co.jp/bungei/3473/
(2)毎日新聞電子版、4月14日付参照
(3)西日本新聞、4月16日付参照
(4)生産性が向上するのかどうかは、懐疑的な議論が多い。しかし、仕事や学習の方法が
改善されれば、上昇するのではないか。
(以上、田中公一朗記)