Tokyo Embraces Wagner’s “Die Walküre” by Koichiro Tanaka

New National Theater spotted clear lights to the gigantic work of Richard Wagner’s signature, Die Walküre in Tokyo(October, 18, 2016).

As for the performance on the stage, the main characters are weil-thought and highly well-organized. Such as Stephen Gould (Siegmund), Greer Grimsley (Wotan), Irene Theorin (Brünnhilde), and Elena Zhidkova (Fricka). It constitutes some powerful Meistersingers in sufficient volume of voice. We know those singers, who might be taken for granted, it does not mean a good stage. Partly because this is the performance of 6th day of the work of this new production, I can clearly see the desire and love for power that each God has in their mind. Also acting eight Valkyries ensemble tightly. Those factors entitled a fine opera of Wagner.
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(C) Masahiko Teraji ( Eye catch picture also)

The success of the orchestra should and would have a special to mention. Tokyo Philharmonic Orchestra is not regarded as good at the pit of theater. But this time IS different. It became gradually good from the 1st day . The last day the tempo was rather fast that made orchestra’s parts fit.
Brass section blows strong sound that is indispensable for Wagner’ s. Contrabass works hard as well. It still does not remain anxious for the pitch, however, these two big points: brass and contrabass sections, two of the center of the ellipse, constructed “Der Ring” world.
T.W. Adorno wrote somewhere citing Richard Strauss that ” Der Ring des Nibelungen , every night has different orchestration,”. The Theater should aim to be so in the future.

The production of the 1990s of Goetz Friedrich looks old. Half-baked simple. High-tech-at-that-time reminds us of old style stage. But let me think about this. Old-fashioned production of this opera draws attention to the conflicts of Gods just we have got to see the singers. This in turn makes audience watch the drama itself. It works very good.

“Der Ring des Nibelungen” sets to perform next year “Seignfried“ and “Götterdämmerung”. “Die Walküre” has already shown the bankruptcy of Gods that comes from pursuing the will for power. Terrible. When Gods perish from the world, human has nothing to rely on. And the bankrupcy is quite near.


highlights  from SPICE movie,
–Tanaka Koichiro

International Relations researcher, and musicologist. Lecturing at Sophia University, Tokyo

『ワルキューレ』ステージ批評

個々の要素がそろわないと全体ができあがらない。そういうことは少なくない。サッカーの試合はそうだろうし、野球だってそうだ。1人の優れた選手がいてもそれだけでは試合に勝てると決まったわけではないし、試合が「おもしろい」かどうかは保証できない。舞台芸術の場合もそうで、特にオペラの場合はストレートフラッシュのように揃えるべきカードが多い。
そのカードがきれいに揃ったのが18日の公演であったといえよう(新国立劇場、2016年10月18日、楽日)。
2016-10-15
(C)寺司正彦(アイキャッチ画像含)

ワルキューレの「ストーリー」自体はそれほど複雑ではない。「神であるヴォータンWotanが権力欲から問題を起こす」ということになる。
もうすこし詳しく書けば、1幕では兄であるジークムントと妹のジークリンデとの間での近親相姦が、2幕ではヴォータンとその妻フリッカとの合理性に関する「喧嘩」があり、そしてヴォータンの娘ブリュンヒルデによる父への反抗がある。3幕でその父と娘の確執からヴォータンはブリュンヒルデから神性を奪い、岩山に閉じ込めてしまうという展開である。

昨日の公演では、この主要登場人物を演じる歌手でもあり演者でもあるキャストがよく考えられてものだったということだろう。ステファン・グールド(ジークムント)、グリア・グリムスレイ(ヴォータン)、イレーネ・テオリン(ブリュンヒルデ)、エレナ・ツィトコーワ(フリッカ)といった歌手陣が、それこそ歌合戦のように十分な声量でパワフルな舞台を構成していた。それぞれが有名な歌手たちであるので、当然と思われるかもしれないが、歌手を集めれば優れた舞台になるのではない。この新制作の作品の公演6日目になったからか、演劇として観ても欲望や葛藤がストレートに出ていた。これはなかなか起きないことだ。また8人のワルキューレたちのアンサンブルも演技も、ヴォータンと向き合う立場を明確に出していた。

オーケストラの活躍も特記したい。東京フィルハーモニー管弦楽団は、正直なところオペラの舞台を得意としていない。だが今回は違った。初日から徐々によくなっていった。最終日はテンポが早く、その分「のれた」のかもしれないが、金管が強い音を出せていたことと、コントラバスの音がしっかり聴こえていたことは大きい。確かにまだ音程に不安が残らないではない。しかし、これはワーグナーの音の世界の2つの大きなポイント、楕円の2つの中心なのだ。またチェロを始めとした弦も細かく音を刻めていたし、パーカッション、ハープも充分にバランスのよい音を作っていた。

アドルノがどこかでリヒャルト・シュトラウスを引きながら「『ニーベルングの指環』はどの作品もそれぞれオーケストレーションが違う」と書いていた。もしそうならば(たぶんそうなのだ)作品ごとに音色の違いがあることを今後は目指してほしい、こうオーディエンスとして願う。

ゲッツ・フリードリッヒの1990年代の演出は古びて見える。中途半端に簡素なのだ。また使われているテクノロジーも旧式だ。だがパトリース・シェーローのような抽象性でもなく、METのようなプロジェクターで画像を映してゆくことでもなく、具象物を置く演出でもなかったことで、聴き手が歌手に集中する隙間が開かれた。それが昨日の舞台の成功の要因だろう。

飯守泰次郎の指揮は、明確に指示を出すものではないので、歌手は歌いやすいとは言えないかもしれない。昨日に関してという条件をつければ、音量のバランス、アゴーギクといった点では楽しめた。それは充分なダイナミクスがあったからだし、オケにほとんど不安がなかったからだ。

この作品『ワルキューレ』は、通称『リング』、楽劇『ニーベルングの指環』4部作の中での2作めに相当する。
リングは荒筋として「神々が指輪をめぐって権力闘争を行って自滅し、人間の時代が来るところで終わる」(『神々の黄昏』)。18日の『ワルキューレ』は『ラインの黄金』を受けて、この後の展開も充分予想させる中で静かに終わってゆく。神々がどうして破綻したのかをすでに暗示している。そこが恐ろしいところだ。神々が滅びたら、人間は何に頼ればいいのか。また、ここでの神々は極めて人間臭い。まるで人間の破綻を暗示するかのように。そこまで考えさせる舞台であり、ひとつのオペラではなく「楽劇」になっていた。
(田中公一朗)


ゲネプロ動画(SPICE movie)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イギリス、EU離脱 Bye, Brits!!

離脱の原因

イギリス(United Kingdom)は、国民投票の結果、EUからの離脱の賛成票が反対票を上回った。離脱賛成leaveが51.9%、残留remainが48.1%という結果。僅差といえば僅差。

この結果を受けて、キャメロン首相は3ヶ月以内に辞任することを表明した。

これは充分ありえることだった。そして事実起きた。なぜだろうか。

まずポピュリズムがいちばん大きなファクターだろう。「イギリスに力を取り戻す」という頻繁に使われた表現がそのことを表している。

イギリスは、通貨はポンドを使いながら、政治的にはEUに入っている。個別の政策はEU委員会や、EU議会で決まってゆく。それはイギリス人にとってみれば望ましくない。
たとえば、移民や難民政策についても、イギリスだけで決定できず、EUの政策に合わせてゆく必要があった。
環境政策や、エネルギー、社会政策など、基本的にEUの枠組みに合致させることが必要なのだ。EUの官僚たちに対しての不満がここから生まれてくる。

EUは経済的には効率がよく、むしろイギリスには有利なのだが、EUに言いなりなのが、自主性や主体性の欠如に見えていた。誰にか? イギリスの中産階級からワーキングクラスにである。

実際、離脱に投票したのはこの階層だ。

よく指摘される、高齢者が離脱を投票し、若年層が残留に投票したという世代間の差もあるだろう。だが、より大きいのは、EUへの不満だ。

離脱によって、GDPは6%低下することが世界銀行から予想されているし、またそのことも知った上での投票なのだろう。数字よりも、そして経済よりも、主体性を取った。

そして、早速、スコットランドが「また国民投票をして、イギリスから離脱する」と表明している。独立した後はEUに加盟して、イギリス政府には従わず、「EUに入る恩恵の方を手にしたい」ということなのだ。EUと直接に関わりたいのだ。

ここから何が起きるか。イギリスからスコットランドと北アイルランドが独立し、現在のイギリス=UKは消滅。イングランドとウェールズだけが地域国家となる。

この「イギリス」の出来事が恐ろしいのは、【次】が控えているからだ。
オランダ、デンマーク、そしてフランス、イタリア、ギリシャ、スペインといった国家が、軒並み「離脱への道」を模索することだろう。
フランスならFrexit、北アイルランドならIrexitという造語がすでに作られている。

この「離脱」の動きは、は極右(フランスの政党「国民戦線」)や、極左(スペインの政党「ポデモス」)であろうがこの点では変わらない。

現状がより展開してゆくと、EUは縮小してゆくだろう。いますぐにではないが、20年後でもない。10年後でもない。

これはナショナリズムなのか?

結論から言うと、イギリスの場合は、ナショナリズムだけではないだろう。スコットランドの例で分かるように、自分たちの地区、地域、ローカルなものに力を取り戻したいのだ。ローカル主義と呼んでよさそうだ。

もちろん、ここに反グローバル化を旗に掲げる人もいるだろうが、それだけではない。また極右を除けばナショナリズム(国家主義)だけでもない。

ヨーロッパ内がより小さい組織になり、そして同時により大きな連合体に所属するという傾向は考えられるだろう。
経済的には、小国であればあるほど弱くなる。効率が悪いのだ。かといって、選択肢は持っておきたいので、EUのような巨大組織には入りたくない。「上からの決定」を回避したい。

「離脱」は新たな都市連合や、国家連合、安全保障上の連合や機構を生む可能性がある。むしろこれは新しい政治形態への可能性だ。

そういう意味では、ここ200年間続いてきた国民国家というシステムの限界が露呈したとも言える。

つまり、国民国家だと国家間で戦争が起きる。戦争防止のために超国家Supranationを作ったら、今日のように離脱が起きた。大きすぎるのだ。

ではまた国家の規模に戻すのか?
それは過去の経験上難しい。もはや民族自決を概念にした「多民族」国、国家の形成は、困難なのだ。

となると、従来型の国民国家、それと超国家、そしてローカル主義、この3つが存在することになる。そこに、都市の連合・連盟や国家連合が、まるで漁網のように多重に張られてゆくというのが今後30年だろう。

また今回、民主制も大きく傷ついた。このことも記しておきたい。イギリスの離脱は「国民投票」で決まったものだ。このような国民参加型の決定方法を採用しようとする地域が増えるだろう。

専門的で難しく、各種の要素を考慮すべきテーマを国民投票で決めていいのか、という疑問が出てくる。だが、「自分たちが関わった」というプロセスの方が重要なのだ。それが現在だ。

ビジネス

日本にも当然影響は大きい。世界経済の大失速は当然だが、日系企業はイギリスに約1,000社進出している。

イギリスをベースにして、そこからEUゾーンへ営業しているというのが通常だ。EU域内は関税はなく、また輸出入のチェックも不要だ。
そしてイギリス市場から、ドイツやフランス、スペインへ出てゆく拠点になっている。工場も多い。日産の工場はあるし、インド財閥のタタ・グループは、ジャガーを所有している。

これらの拠点をイギリスからEU内に動かさなければならない。UKからEUへの高い関税、非関税障壁、それはごめんだ。
では、例えばドイツに動かす? 英語は通じるとはいえ、ドイツ語は必須だ。手続きも煩雑ダ。スイスはあり得るが、そもそもEUではないし、物価が高すぎる。

また進出先の治安も考えなければならない。ヨーロッパはテロによって「戦場化」しつつある。

拠点設定の苦しい選択が必要になる。ヨーロッパから撤退する企業も出てくるだろう。まずはベルリン(地価が安い、英語が通じる)がよいかとは思われるが、日本からの直行便はない。新空港は未だに完成していない。

これは日本企業だけの問題ではなく、韓国、中国、アメリカ、インド企業にも同じことだ。イギリスが金融の入り口、エントランスになっていて、それが閉じてしまい、出口exitになったのが今日Brexitなのだ。

イギリスのEU離脱は起こるか Brexit, Possible?

ポピュリズム

EUではポピュリズムが渦巻いている。メイルストルム(=大きな渦)を起こす種類の妖怪specterである。
ポーランド、ハンガリー、オランダ、イタリア、フランスなどが、軒並みポピュリズム的な政党が強くなっているか、政権を取っている。極左から極右までありうるのが特徴だ。

デモクラシーはいろいろな意味で失調、不調が続いている。納税者は不満なのである。いったい何にか? それは「既成の政治家」に不満なのである。増税、緊縮財政、高い失業率、移民、難民問題。これをなんとかしてくれ!と考える。

そこで出てくるのが、過激な考え方を持つ、政治の「素人」だ。「難民は入れない」「この地域は独立する」「緊縮財政は採用しない」「社会保障は減額しない」「増税は回避する」

こういうマニフェストを出す素人政治家が舞台に登る。人気が出る。

「そうか、そういう新しい種類の政治家が登場してきたのなら支持しよう。投票所にも足を運ぼう」 こう新しく心に決める層が出てくる。

これがポピュリズムである。テクノクラートと従来の政治家によるデモクラシーでは、自分たちの考えを代表してくれていない。こう失望している人たちにとっての希望である。

しかし、もちろんこういう「素人」集団は、難民の排除を行ったり、人権を軽視する。従来の政治的な思想や枠組みでは決して支持できない思想の持ち主だ。

ここでドナルド・トランプ氏を想起しても良い。こういう背景のもとにトランプ氏は支持されている。

政治家は信用できない、だから、レファレンダム(国民投票)を!ということになる。

EU離脱?

この、ぐるぐると渦巻いている妖怪は、そうそう簡単に消せないだろう。デモクラシーは、時間がかかるが長期的には効率がいい、という「実感」を持たせるのが難しい。

この中で、UKの自立が問われている。EUによって、イギリスは自立できなくなった。こう思い込んでいる。移民や難民は、イギリスの制度を自由に使っていて、それはイギリス人には不利だとみなす。

そして、イギリスの離脱は、リーマンショック並みの大きな経済停滞を起こすだろう。

中国の現在 China Moving On

最近の中国の、特に軍の動きは展開が急だ。

いくつかの急所をポイント化してみよう。

・南シナ海島嶼部での利己的な行動
・インドとの領土問題の顕在化
・東アジア、特に日本の接続水域や領海への侵入

この動きは、これからさらに広がって行くと考えられる。

分析

上記3点の理由

①1つめとしては、中国は、新興国としていままでの国際的な体制に対抗して、新たな秩序を作ろうとしている点(たとえば「一帯一路」)が挙げられる。これは「反アメリカ」という形で現れやすい。現在の国際秩序は、主にアメリカが作成したゆえ。

②習近平政権が、「パナマ文章」をきっかけにやや脆弱になってきている。この弱さを補うために、中国共産党政府は、人民解放軍にやりたいようにやらせて、「反・習近平」にならないようにするだろう。

③中国共産党内部での権力闘争の中、習近平は「他国と協調」ではなく「中国の強さ」を出すように迫られている。

④中国経済を「新常態」と呼び、再定義。またバブル崩壊もなんとかしのいでいるものの、株価は下落傾向であり(上海A株)、地価も下がってきている。このことを考えると景気浮揚のために、軍事支出増加ということはあり得るし、実際に軍事費は増大している。

⑤中国のいくつもある弱点のうちの1つは、自然資源のなさだ。それを補うために、南シナ海を確保したい。また原油輸入のための東南アジアのタンカーの経路、いわゆるシーレーンの安全性も保ちたい。

こう考えると、人工の島を作り、海警(日本の海上保安庁にほぼ相当)を派遣し、海軍や空軍を強化するのは、当分止まらない動きだと考えるのが自然だろう。

また中国の「ネット民」(ネット世論)が中国の外交政策に影響を与えていることは知られている。ネットの中では、反米や反日的な言説はしばしば見られる。この言説への対策も必要になる。

今後の中国

今後の中国は、上記のことからからみれば、<軍事的な拡張路線>をとることはほぼ間違いないと言える。習近平政権は、ある種の「文化大革命」のような独裁的な状況すら持っている。そこで思想や方向性の統制も強くなってきている。たとえば香港のデモクラシーの抑圧や、香港の書店員の拉致と「思想教育」がその例である。

王毅外相との交渉ではなく(王毅外相には外交決定権は厳密にはない)、より共産党の中核との交渉を求め、東アジアで紛争が起きることが双方にとって、また地域にとって得なことがないことを説明すべきだろう。そして真に理解してもらうことだ。

また状況によっては、共産党にとっての不安、つまり共産党に対する革命(裏返しの「ブルジョワ革命」でもあるし「革命の革命」でもある)が起きないような知恵を与えることすら必要かもしれない。これは内政干渉ではもちろんないレベルで行われるべきであろう。

日本にとって軍事力強化も重要になってはくる。だが、それほど予算が避けるわけではなく、また周辺国に却って脅威になりかねない。まずは中国共産党の先鋭化を止めることで、日本の軍事力の重要度を下げることだ。とても難しいことだが、日清戦争、日中戦争の後の、第3次日中戦争を回避するには必須だろう。

田中公一朗記

AIについて

AI、人工知能に対しての楽観論があり、また一方では恐怖の感情が巻き起こっている。

AIが人間の能力を超えてゆくことをどう考えたらいいのだろうか?

一つは「人間の終わり」であり、これはヘーゲルやニーチェが唱えたヴァージョンが有名だろう。対立が終わることで、人間は実質的には終焉し、また同時に人間の歴史も終わる。あとは瑣末なこと以外はほとんどなにも起きない時代が来る。

ニーチェの場合は、人間という不完全なものではなく、永劫回帰を理解し、それに耐えられたものを「超人」(Ubermensch)と考える。

さて、人が持つ恐怖の一つは「自分の仕事をAIがやってしまう」ということだ。実際に現在も起きていると言える。AIの方が維持費が安ければ、企業はAIを使う。IBMのWATSONしかできないこともある。
現在の人工知能は、学習機能もあり、モンテカルロ法を使った検索で、将棋や囲碁のような限定的なゲームではもはや圧倒的に強いことが証明された。

人間のやっている知的な仕事は、たいていパターン化できる。それほど創造性が高いことをやっているわけではない。そこはAIが5年程度で担うことになってゆくだろう。

ではAIにはできないことはなんだろう。

それはまず個性を持つことだろう。それから正義や善悪の判断。倫理や道徳。こういう分野に苦手だ。

この領域は、多様で多元的だからだ。AIが学習をした場合に、AI間で並列化をすると、情報を共有する。これが学習だろうが、そうするとAIの個性は消える。

また、善悪といったものは、効率だけでは判断できない要素がある。ジョン・シュチュアート・ミルのような功利主義的な考え方を貫くならともかく、AIには善悪は決定できないだろう。その場その場で、最適な判断がいくつか出てくるからだ。社会的なコンテクストを読むだけではなく、社会が自己言及的であることもAIが理解する必要がある。

宗教的な神の存在もおそらく理解されない。

それから不確実性。これについてもAIは理解しにくいだろう。人類が過去に記録していないことは学べない。
仮に巨大な小惑星が接近してきたらどうするか。電磁波の影響で電源が落ち、大規模停電が起き、充電も尽きたらどうするか。そういう前例のないケースに関しては人工知能は弱い。
「恐慌=パニック」すら起こすだろう。人間もこの場合にパニックを起こすだろうが、そこに「意思」「意図」「生存への動機付け」が人間にはある。

ムーアの法則は速度は遅くなってきたとはいえ成立している。近いうちに、人間とAI、ロボット、アンドロイド、ナノテクノロジーについて熟考すべき時期が近付いている。

人はAI研究に規制をかけるのか、またかけられるのか。それとも、人類は、AIに従属するのか。科学者は昨年2015年になって、急に警鐘を鳴らし始めた。判断すべきその日は意外に近いのかもしれない。

映画『Ex Machina』とチューリング・テスト

チューリング・テスト

作家として有名なアレックス・ガーランド。日本でも小説『ビーチ』である程度話題になったことがあった。その彼がこの映画、『エクス・マキーナ』を撮った。劇場公開は2015年春(日本未公開、同名のアニメ作品とは関係はない)。

作家が映画を撮影すると、作品として成功しにくいケースがむしろ多いだろう。村上龍の映画は見所があるものけれど、小説の方が断然完成度が高い。他にもスティーヴン・キングの例があるが状況は似ている。

結果から書くと素晴らしい映画だと断言できる。TIME誌、ウォール・ストリート・ジャーナル紙の2015年映画ベスト10に入っているのも肯けるところ。

ガーランドが脚本を書き監督もしたのだが、テーマとしては昨年2015年から話題になることが特に増えた人口知能(AI)だ。いったい人工知能は人間になりうるだろうか? それを真正面から問う映画といえる。でも重たい映画ではなく、エンタテイメント性を保ちながら、緊張感があり編集のリズムがよい作品に仕上がっている。
(下記「ネタバレ」”spoiler”あり)

機械に心があるのか? この問いは、古来からあったものだ。道元は人間を作り上げようとしたし、『巨人ゴーレム』もこの系譜に位置づけられるだろう。多くの問題がこういう物語内では提起されるが、一番大きなものは「機械に心があるかどうかをどのように確かめるか」ということに尽きるだろう。

心は機能であり、心そのものを見ることはできない。では、心がある(=存在している)ことをどうやって確認するのだろう。その方法に関しては、最近亡くなったミンスキーから、物理学者のペンローズ(素粒子論的プロセスが脳で起きている)まで多様な考え方があった。この映画では、数学者アラン・チューリングの考え方を取り入れ、機械に心があるかを確かめることが物語のコアとされている。

チューリングとは、映画『イミテーション・ゲーム』でカンバーバッチが主役になったあの役に当たる人でもある。映画の中では巨大なコンピュータを考案し、また同性愛に苦しむ状況が描かれていたが、彼は「チューリング・テスト」と呼ばれる方法も提示している。

チューリング・テストとは、【人が相手を機械と知らずに充分に長い時間、機械と話した場合、相手が機械だと気づかなければ、それを「心があることとみなす」】というものである。心が実在するかどうか確認できないのであれば、心同様の働きがあればそれは心とするという見方だ。心の存在を問わない。そうではなく、心の存在を認めるのに、消極的な証拠さえあれば、「それを心としてよい」ということだろう。

この映画の中では、ある研究者がこのチューリング・テストを確かめようとする。そのプロセスが映画であり、主人公はそのために研究者の元に連れてこられる。
ここから先はストーリーに当たる部分なので書けないが、もう1度見たくなる濃密な映画だ。

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この映画の拡がり

この映画の素晴らしいところは、人間とAIの違いが「ない」ことを、伝えているところである。「ペッパーくん」が充分に知能を持てば、人間との差は見かけだけになる。そして「ペッパーくん」が人間の形状に乗れば、もはや人間と区別がつかなくなる。
この点については、シンギュラリティーの議論になるのでいまは立ち入れないが、しかし、問題は極めて深く、また深刻である。

ここで問われるのは、「人間とは何か?」ということではなくて、「人間は途轍もないものを作ってしまっているのではないか」ということだ。

キャスティングも優れている。マッチョな神経生理研究者、クジに当たった主人公、そして女性たち、それぞれ、有名な俳優ではないが適材だ。

そういえば、ヴィトゲンシュタインの「青い本」というタイトルが、AI研究所の名前になっている。The Blue Bookである。「意味とは何か」からはじまる講義録で(『青色本』、大森荘蔵訳、ちくま学芸文庫)ヴィトゲンシュタインの本としては例外的に読みやすい。わかりやすいとは言えないが、読むことはできる。これはヴィトゲンシュタイン的な意味論が、心に関係しているだろうというガーランド監督からのメッセージかもしれない。

山深いところにある研究所は、ペーター・ツムトール(ペーター・ズントー)が設計したかのようなアウトテリアであり、インテリアは、シャープな印象を持たせる。そしてどこにでも監視カメラが据えつけられている。
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ペーター・ズントーの建築(スイス、1986)

この映画は、『惑星ソラリス』『ガタカ』の流れに属していると言えるだろう。前者では、人類の精神を反映し、物質化する宇宙人を扱い、後者では遺伝子治療の問題をSFの中で描いていた。「予告編」は『ガタカ』。イーサン・ホークの出世作。

映画史上もっとも古く、すでにアンドロイドに操られる問題を、階級闘争に入れ込んだ作品がフリッツ・ラング監督の『メトロポリス』だ。
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映画『メトロポリス』より

また『攻殻機動隊』で、この心の問題は「魂=ゴースト」と名付けられ、単なる心的な機能と、人間が持つゴーストを区別している。新劇場版ではこの問題はほとんど扱われていない。
下記は映画のオープニング部分。日本語。


「心の存在」という表現するのが困難なテーマでブレイクスルーを起こした、そういう映画がこの『エクス・マキーナ』である。「女性が活躍する」のも示唆的だ。

人類はこの人工知能の問題をどうするのか、まず考えられるのは、人工知能、AIの研究に規制をかけることかもしれない。科学が人類を危機に陥れるとき、人は科学研究を規制する。クローン研究がそのもっともいい例だ。

『Ex Machina エクス・マキーナ』予告編


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