社会は多様な要素からできていて、そこには様々な考え方や物の見方、そして宗教が並存している。並存状態をそのまま放置すると「血みどろの戦い」(長谷部恭男)が起きる。それはほとんど誰にとっても望ましくないだろうから、法、とくに憲法=コンスティチューションを作る。そこで社会から私的なものを分離する。それで個人の自由を保障しながら、社会的な対立を起きにくくする。
つまり個人的な信念や行動は、私的な空間のみで行うこととし(思想や信教の自由)、公的な空間では、複数の見方や見解、諸宗教が共存する状態を作り上げた。
これがデモクラシー、民主制だ。
ここで大きく機能しているのは、次のような考え方だ。多様性の容認、それと自分の私的な思想の容認。この状態を法的にも規範としても確保しているのがデモクラシーの国家ということになる。
もし思想や宗教間で対立があった場合、政府は少数派を抑圧したり、政府の思想を押し付けたりはできない。マイノリティーを徹底して圧迫すると、それはファシズムになってしまう。ファシズム化は避けられている。
デモクラシーのより徹底した形の一つがPC(「政治的な公正さ=ポリティカル・コレクトネス」)であり、少数派の位置を言葉上でも守ろうとした。
「産婦人科」と呼ぶのは、女性だけが出産や育児に関わるというイデオロギーを表してしまうから、産科や婦人科と呼び変えたりするのがそれだ。これは容易に言葉狩りにつながり、現実を正確に表現できなくなる場合がある。
実際、個人の精神面で、差別や排除の意識はデモクラシー国家でも残ってしまう。
ここでドナルド・トランプ氏が登場する。公的には多様性を重視するという立場なら「言ってはならない」差別や排除を、遠慮なく言うのが共和党の大統領候補ドラルド・トランプ氏だ。
トランプ氏は人気を保つ。なぜか?
公私の区別をなくし、社会の多様性を認めず、自己の価値観をそのままさらけ出しているからだ。「今回の事件の全容がはっきりするまでは、イスラーム教徒はアメリカに入国させない」という文言でむしろ支持率が上がっている。それはイスラーム教徒に対して「よく訳がわからない人たち」「危険な宗教」と思い違いをしている人たちにとっては、「よくぞ言ってくれました、これでアメリカは少しは安全になる」と考えているのだろう。
問題は、こういう私的な発言であるべきものを、公的な場で堂々と話してしまっているところにある。これは公私の区別のなさであり、上述の立憲主義に対立する考え方だ。憲法の危機である。国家を成立させる=コンスティチュートさせる基本的な思想を壊しているのだ。
今後、アメリカでは価値観や宗教の対立が拡大してゆくだろう。価値や異なる宗教を認めなければ、対立は激化し、暴力すらも起きてしまうだろう。
かくして、アメリカはアメリカの初期に戻ってゆく。